娘のピアノレッスンを聴いていた日曜の昼下がり、
ふと、昨日のレッスンで交わした「違和感」についての会話が頭をよぎった。
昨日、生徒さんと話していたのは、“世界を股にかけるやり手ビジネスマン”の話。
言葉は明快、エネルギッシュで説得力もある。誰にでも伝わりやすくて、
世の中的には「優秀」とされるタイプかもしれない。
でも私は、その人の放つ雰囲気に引っかかっていた。
言葉がうますぎる。
自信に満ちたその姿は、どこか高圧的にも映った。
才能をひけらかすような雰囲気。
そこには奥ゆかしさや、他者への敬意のようなものが一切感じられなかった。
まるで人を見下すような、ちょっといやらしい印象さえ残ってしまった。
そんな感覚を、私は“違和感”と呼んでいる。
翌日。
娘のピアノの音をぼんやりと聴いていたとき、
なぜ自分があのとき違和感を覚えたのか、なんとなく腑に落ちた。
ピアノは、誰が弾いても音は出る。
でも、その音に「何を込めるか」は人それぞれ。
音をどう出すか、どんな感情を乗せるか。
表面的には、ただの「音」。
けれど、その奥には作曲者の魂や、奏者の思い、指導者のまなざしが確かに息づいている。
音に「心」が宿るには、
時間と想像力、そして深い洞察と表現の積み重ねが必要。
それは、昨日のレッスンでの話とどこか重なっていた。
今は、AIがあらゆることを整然とこなしてくれる。
言葉も、美しい文章も、きれいに出力してくれる。
とても便利で助かる一方で、そこに「自分らしさ」や「温度感」が乗らなくなってしまう危うさもある。
AIに任せすぎて、自分の思考を放棄してしまったら、
気づけば“言葉”が独り歩きしてしまうかもしれない。
それと同じように、
フラワーアレンジメントでも音楽でも、真似すれば「それっぽいもの」は作れる。
形は整っていても、そこに深みがなければ、なんだか物足りなく感じてしまう。
本当に奥行きのある表現は、
時間をかけて、自分の中に落とし込んで、やっとにじみ出るもの。
突貫工事では、決してたどり着けない場所がある。
私は、違和感を感じたとき、
その感情を見て見ぬふりはしない。
「なんでだろう?」と、自分に問いかける。
そこから始まるのは、終わりのない深掘りの旅。
でも、その旅こそが、自分を知ることにつながっている。
普段は無意識でしている判断を
あえて言語化してみる。
あえて理由を探してみる。
すると、「私はこれが好きで、これはちょっと苦手なんだな」って
輪郭がくっきりしてくる。
嫌なことを避けられるようになり
心地よい選択ができるようになっていく。
それは、結果として“生きやすさ”につながっていく。
違和感って、ネガティブなものじゃない。
むしろ、自分にとって大切なものを教えてくれるサインかもしれない。
花も、音楽も、そして言葉も。
私はこれからも、違和感の奥にある“ほんとうの自分”と向き合いながら、
静かに、でも確かに、表現していきたいと思う。
たとえば、一本の花をどこにどう活けるか。
そこには、言葉にならない対話と、自分らしさのすべてが詰まっているのだから。