「話にはオチが必要でしょ」
「文章にはちゃんと意味がないと」
そんなふうに思い込んでいた気がします。
いや、今も思ってる部分があります。
だから、ブログを書くたびに肩に力が入っちゃう。
なんかこう、いい感じにまとめなくちゃいけないような気がして。
でも、家では平気で「ぷぴー!」とか「うほー!」とか支離滅裂言ってる自分が、それを言葉にしようとした瞬間、急に”ちゃんとした人”ぶろうとするのって、ちょっと笑えます。
なんでそんなに、かしこまっちゃうんだろう?
ふと思ったんですけど、、、
自分は、けっこう「意味のないもの」が好きかもしれません。
オチがよくわからない映画とか、主題がぼんやりした絵とか、登場人物がなにひとつ解決しないまま終わる小説とか。
鑑賞し終わったあと、「で、結局なんだったの?」って思うのに、なぜか心に残るんですよね。
むしろ、そういうほうが、長く深く染みて来るというか。
webの記事でもSNSでも、ただその日の気分をぽつぽつ綴ったような投稿や、詩みたいな文章に惹かれてしまうのは、意味がはっきりしないものの中に「余白」を見つけてほっとできるから。
その余白の中で、わたしも息ができることが心地よいのです。
だから、“ちゃんとしていない”って、実は相手に「ゆとり」を差し出すことなんだろうなあ。
なのに。
いざ自分が書こうとすると、やっぱり「意味への期待」が降ってくるっていうね……。
「これは何が言いたいの?」
「どうまとめるつもり?」
そんな問いが勝手に頭の中に現れて、キーボードを叩く手を止めてきます。
読んだ人に伝わるように……とか、ちゃんとした文章に……とか。
そういう“正しさ”が、自分のゆとり面積を占領してしまいます。
(まあ、文章の用途にもよるので、これを「悪」とは一概に言えませんが)
だけど、写真を撮るときはそうならなんですよねえ。
ぼーっと歩いているときに不意に出くわす落とし物、普通の民家のふつうの窓ガラスに反射する光、室外機の熱風が舞う裏路地の空気とか。
お!いいな!という直感のまま、シャッターを切っちゃう。
「それに意味があるかどうかなんて、どうでもよくない?」
って、軽々と”正しさ検閲”を超えちゃう。
でもその一枚には、たしかに”わたし”が映っているっていう、ね〜。
言葉も、それくらい軽やかであってもいいのか!
オチのない話。
それは、なにかを伝えたくないのではありません。
ただ、ちゃんと整理された形をしていないだけで。
でも、そんな話でも、どこかの誰かの中にすうっと届くかもしれません。
それだけで充分ですな。
ところであなたは最近、意味のないひと言、どんなものを口にしましたか?
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