リニューアルされたホールと、オーバーホール直後のフルコン
先日、しばらくぶりに訪れたホールでピアノリサイタルを聴いてきました。
耐震工事を経てリニューアルされた会場に足を運ぶのは、私にとってこれが初めて。
新たな空気をまとったその場所には、オーバーホールを終えたスタインウェイのフルコンサートグランドピアノ(いわゆる“フルコン”)が静かに佇んでいました。
このピアノを、オーバーホール後に初めて弾くのだという演奏者の言葉に、思わず耳を澄ませてしまう。
ピアノは、人の手に触れられていくうちに、少しずつ音がまろやかになるのだそう。
その話を聞いた後だったからか、私の耳には、まるで“3Hの鉛筆”のような少し硬質な音に感じられました。
けれど、それはそれで新しい命が吹き込まれる“始まりの音”のようにも思えて。
時間とともに馴染んでいく、そんなピアノの成長を見届けたような気持ちになりました。
「20世紀初頭の諸相」──時代と個性を映す選曲
演奏者は寿明義和さん。
家族揃って、20年以上応援しているピアニストです。

今回のリサイタルのテーマは「20世紀初頭の諸相」。
選ばれたプログラムには、同時代の作曲家たちのエッセンスが詰まっていて、それぞれの個性が鮮やかに浮かび上がるものでした。
- クープラン:シテール島の鐘、クープラン
- ラヴェル:クープランの墓
- スクリャービン:ピアノソナタ第5番 作品53
- ラフマニノフ:ピアノソナタ第1番 ニ短調 作品28
特に、ラヴェルの《クープランの墓》は、今まさに娘が練習している曲でもあり、私にとっては特別な想いで聴く一曲。
いざプロの演奏で聴いてみると、同じ曲なのに、全然別物…!
もちろん技術の高さは言うまでもないのだけれど、解釈の深さや表現の豊かさが圧倒的で、
ただ“聴く”だけでなく、“感じる”ことに集中している自分がいました。
それなのに、不思議と体に余計な力が入らない。
難しい曲のはずなのに、彼の音はまるで雑味が一切ないままスッと身体に染み込んでくる。
気づけば、深い呼吸ができていることにホッとするような、そんな感覚。
彼の演奏は、指先だけでなく、全身で音を鳴らしているのが伝わってきます。
時にジャンプしているように、時にスキップしているように。
ピアノという楽器と完全に一体化して、まるで遊んでいるみたい。
音をコントロールするというより、音と一緒に舞っているようにも見えました。
若手ではなかなか出せない、落ち着きと重厚感。
彼の奏でる音は、まろやかなクリームのように心地よく、
まるでアンティークのインテリアに囲まれているような安心感がありました。
ずっとこのまま包まれていたい、そう思える時間。
そして今夜、いちばん心に残ったのは、
「表現には、その人らしさがにじみ出る」ということ。
“間違い”さえも味になる、表現の深さ
音楽には楽譜がある。
そこには“弾くべき音”が書かれているけれど、
“どう弾くか”という部分は、演奏者の解釈に委ねられている。
同じ曲でも、誰が弾くかで全く違う印象になるのが、音楽の面白さ。
それに…あまり大きな声では言えないけれど、
プロでも実は、少し間違えることもある。
でも、その“間違い”を全く感じさせない流れで魅せてくれる。
まるでアドリブのように自然で、むしろ味わい深い。
私自身も、娘の練習に長年付き添っているからこそ、
「あれ?今のって…?」と気づく瞬間があったのだけれど、
それさえも一つの“表現”に思えるほど、彼の世界観が完成されていました。
音楽と花──“その人らしさ”を映す自由な表現
音楽と花。一見異なるようで、どちらも“その人らしさ”がにじみ出る、自由な表現の世界。
ブーケにも、最低限のテクニックはあるけれど、正解や不正解があるわけじゃない。
むしろ、自由に、思い切り個性を出せることこそが、魅力なのだと思います。
レッスンでもよくお伝えするのが、思考多めで作ると無難なものになり、逆に、感性全開で作ると予期せぬハプニングが起きても、それがチャームポイントとなり、味わい深い作品になるのです。
今夜は、音の余白に包まれた、しあわせな時間でした。
音楽と花。どちらも、愛おしい。